平田隆夫の紹介

平田隆夫は、武蔵野音楽大学の存在感を高めた音楽家でして、デビューしてから亡くなるまでの間音楽活動に従事しました。
平田隆夫は、京都府で生まれて武蔵野音楽大学にて本格的に音楽を学び、その後当時人気を博していたアフロ・キューバン・ジャズに入り、活動をしていました。
そして3年後には平田隆夫とセルスターズを作り上げ東京の有名レストランにて音楽演奏を行っていました。

平田隆夫はジャズ・ピアニストとして活躍していましたが、それだけではなくて作詞や作曲にも従事し、数多くの有名曲を世に送り出してきました。
ほぼ同年代のセルジオ・メンデスを敬愛していたようです。

平田隆夫とセルスターズはレストランでの演奏などを行っていたわけですが、1971年には大手のレコード会社と契約を果たし、まずは「悪魔がにくい」を送り出しました。
オリコンで1位を獲得するほどの大ヒットを達成して、1972年には紅白歌合戦にも出場しています。
紅白歌合戦にも出場したということもあって、日本国民の多くが平田隆夫とセルスターズの曲を知ることになりました。
しかし数年後にこのグループを解散したわけですが、自身のミュージックパブをオープンさせるに至ります。
それだけではなくて会社を設立するなどの活躍を見せ、音楽家としてだけではなくて実業家としても活躍したと言えるのではないでしょうか。

1970年代後半に解散した平田隆夫とセルスターズはその後も多くの人の心に残り続けていて、ついには復活するに至りました。
それは1993年のことで、ヴォーカリストは変わりましたが、素敵な演奏は変わらず人々の心を豊かなものにしてくれました。

平田隆夫が活躍していた頃というのは、今とは全く違って活躍の幅が狭かった時代ですから、有名になるには大変な苦労があったことでしょう。
しかしながら平田隆夫は誰もが知るような有名な音楽家に上り詰め成功したわけですから、やはりかなりの才能があったことが想像されます。

72歳で亡くなったわけですが晩年になっても音楽活動を欠かしていなかったようで、自身が経営していたミュージックステーションで演奏を行っていたようです。

武蔵野音楽大学は今や日本を代表する音楽大学ではありますが、ここまで素晴らしい大学になり得た理由は、過去の偉大な卒業生達が素晴らしい成果を挙げてきたからに他ならないでしょう。
平田隆夫も、その素晴らしい卒業生の中にもちろん含まれています。